rincoror.in 共働き兼業主夫の戯れ言

「電車で座る子供やベビーカー電車内持ち込みに意見」に意見

2014.08

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子育て / 兼業主夫雑記

一時期、私のTLでもベビーカー論争が賑わっていた。その後、各鉄道会社が公式に、ベビーカーに子を乗せての乗車への理解を促したこともあって、(相変わらず否定的な人はいるにしても、少なくとも表向きには)まあまあ落ち着いたのかと思っていたところに、この記事。なぜ今またぶり返すのだろう。煽りなのだろうか。

金美齢氏 電車で座る子供やベビーカー電車内持ち込みに意見

導入部分からしていきなり、面食らってしまう。

「弱者」ならば何をしても許される──そういった風潮もあるが

金美齢氏 電車で座る子供やベビーカー電車内持ち込みに意見│NEWSポストセブン

引用元、以下同様。

……いや、そんな風潮、ないし。

「弱者」と括ってしまうのもどうかと思うが、この記事で批判されている「弱者」の皆さんは、私感では、この方が考えているよりも、ずっと謙虚だ。「何をしても許される」などとは、(私を含めて)おそらくほとんどの人が思っていないのではないか。

空席があると子供がまずわれ先に座り、親が荷物を持って立っているのだ。(略)日本には、「子供を優先して当たり前」という風潮が蔓延しているが、実に偽善的だ。

「「子供を優先して当たり前」という風潮が蔓延している」とも私には思えないのだが、少なくとも私の場合、親の自分よりも子どもを優先的に座らせるのは、たんに、子どもを無理に立たせてグズられる方が、よほどまわりの乗客に迷惑をかけてしまうと考えてのことだし、あるいは、電車を降りたあと当分歩いてもらわないといけないので、体力温存のために座ってもらっているだけのことである(普通子どもは大人ほど体力も持久力もない)。偽善的であるとかないとか、そんな精神論的なこととは何ら関係がない、現実的な対策である。

私にはむしろ、扉が開くなり我れ先にと椅子取りゲームのごとく卑しく座りにかかるのは、オジサマやオバサマたちであるように見える(これも偏見?)。

揺れる車内でバランスをとりながら立つことで足腰も鍛えられるし、社会の主役である大人が優先されるのは当然だからだ。

なにもそこで鍛えなくても……。電車のなかった時代の子どもたちは、今の子どもよりも足腰が弱かったのだろうか。毎日電車で通学する子どもは、そうでない子どもよりも足腰が強いのだろうか。

そんな末節はさておき、「社会」とは、端的にいえば、人と人との繋がりのことだ。よくいわれるように、人は一人で生きることができない、原来的に社会的な生き物である。大人も子どもも、お年寄りも障害者も、男も女も、あらゆる個人が(道徳の問題としてではなく原理的なこととして)等しく社会の成員である。そこにどうして、はなから当然のごとく「主役」の概念が(ということは必然的に「脇役」の概念も)出てくるのか、私にはわからない。さらに、その主役とは「大人」であり、かつそれが優先されるべき存在であることが、どうやって導出されるのか、その論理が皆目見当がつかない。優先されるべき「主役」が出てくるとすれば、そこにまったく必然性はなく、あくまで人為的な操作によるものであり、つまりこれは差別の発想そのものだ。

大人が社会の主役であると(無意識的にでも)信じている人は、たしかにいる。もっといえば、お年寄りでも障害者でもなく、元気に働ける健康な大人だけが社会の主役であると思っている人はいる。さらに、女性は脇役であり、主役はあくまで男なのだという傲りが、そう明言はせずとも言動や態度の端々から滲み出ている人は、後を絶たない。

「社会の主役は大人」という発想は、お金を稼いでくる男だけが偉く、あとの者はその庇護のもとに服従を強いられるという前時代的な家族観と、程度差こそあれ、同根である。前者には同意しながら後者には同意しないとすれば、それは筋が通らない。これは、いわゆる経済社会、あるいはビジネス社会だけを「社会」とする偏狭な社会観でもあり、生活のためには欠かせない家事や育児、その他収益を生まない価値ある活動も、労働とはみなされず、不当に軽視されることにつながる。

社会を構成する個人個人の関係とは「協力関係」であり、どこまでも対等で相補的なものだ。家族でいえば、お金を稼ぐ男だけがいたって、そのお金を使って衣食住の世話をする人間がいなければ、どうしようもない。子どもであっても、協力関係に加わることはできるのである。

車内へのベビーカー持ち込みも(略)それを「当然の権利」と甘えないで、他人様の好意に感謝してほしい。

そもそも、一体誰が好き好んで、我が子をベビーカーに乗せて、混んでいる電車に乗り込むだろうか。世の中、ベビーカーでの乗車に寛容な人ばかりではないことくらい、百も承知であるし、あまりに混んでいようものなら、乗客がベビーカーに倒れ込んできたりと、最悪我が子に危険がおよぶかもしれない。本当なら、電車以外の移動手段を使うなり、せめて混雑時を避けて電車に乗りたいはずである。わざわざ混雑している電車に乗り込むのには、それなりのやむをえない事情があるものだ。

「当然の権利」とばかりに横暴になるどころか、頭では「権利はあるはず」と考えながらも恐縮しながら乗り込み、何事もトラブルの起こらないよう、最大限まわりへの配慮もしているという人がほとんどではないだろうか(私はそうだ)。私も何度か、電車内で思いがけない親切を受けたことがあるが、本当にありがたいと思った。言われるまでもなく、感謝している。「「当然の権利」だと甘えるな」「感謝せよ」という人は、一体ベビーカー連れの乗客に、これ以上何を求めているのだろう。

子供の権利を声高に唱える風潮にも軽薄さを感じる。「人間はみな平等だから親と子供は対等、教師と生徒も対等の関係であるべき」と言えば(略)「大人に対して対等に物を言える」という錯覚を抱いてしまうからだ。未熟な子供と、長い人生の年月を重ねて、学び、働いてきた大人の意見が同等の重さということはあり得ない。

「親と子供は対等、教師と生徒も対等」……その通りだ。子どもは「大人に対して対等に物を言える」のだ。どうしてそれがいけないのだろう?

当然、大人と子どもとでは、知識や経験の量にも思考力にも差がある。でもそれは、大人と子どもの対等さとは、なんら関係のないことだ。大人が間違うことは普通にあることだし、子どもが大人の間違い(だと思うこと)を指摘してはいけない理由も、どこにもない。

それに、嫌というほど世間の垢にまみれた大人が、先入観の少ない子どもの言うことに、はたと目を醒まされたという経験もまた、普通にあることではないか。「未熟な子供と、長い人生の年月を重ねて、学び、働いてきた大人の意見が同等の重さということはあり得ない」などということも、全然いえない。

少子化が進む世の中で、子供たちは甘やかされ大事に大事に育てられてきた。(略)子供がわがもの顔でふるまう社会になってしまったのは、大人が自ら厳しさを封じ込めてしまったからだ。

我がもの顔で振る舞う子どもは、昔からいるものだし、そういう大人だって、常に絶えない。最近になってそういう子どもが増えたというデータでもあるのだろうか。それに、今の子どもたちは子どもたちで、昔とは違った、大変な厳しい世の中を生きている。

なんというか、全体的に、むしろ歪んでいるのはこの人の世界観の方ではないだろうか、という印象をもった。ごく一部の悪い事例を、世間全体の風潮であるかのように勝手に過大視して、それを勝手に批判している、という独り相撲に見える。